タイ・バンコクのアラブ人街の闇

「タイ・バンコクのアラブ人街の闇」のアイキャッチ画像

プレゼントを値切る男

お腹いっぱいに満たされた私達は、その足でアラブ人街の奥地へと足を進めた。

暗闇に眩しく光る呪文のようなアラビック文字のネオンに、屯するムスリムファッションに身を包んだ女性達の姿など、どの光景もとても新鮮だ。

コスメショップのショーウィンドウにはブラックのボリュームマスカラやアイライナーがずらりと並び、アラブの女性達はどうやら濃いめのアイメイクが好きらしい。

そして、終始ワクワクした様子でショーウィンドウ越しの未知の世界を覗き見する私に、ドバイ人の彼がこう話しかけた。

「君にジュエリーを買ってあげよう!どんなものが欲しい?」

あまりの唐突な申し出に一瞬動揺したものの、この嬉しい提案に、私は少し心を躍らせて首を縦に振った。

すると、彼はアラブ人街にズラリと立ち並ぶジュエリー店に片っ端からズケズケと入って行き、何やら流暢なアラビア語で店員と話し始めるのであった。

彼が店員と世間話をしている隙に、私は何か目ぼしいものはないかとショーケースを覗くと、そこには見たことのあるデザインのブランドジュエリーや時計、バッグなどが並んでいた。

私は、仕事柄実際の店舗でブランド商品を頻繁にみる事が多い上、質屋での勤務経験もあった為、そこに並ぶ商品が明らかに偽物だということはすぐに理解できた。

「ゆりか、これはどうだ?」「これは好みか?」と次から次へと勢いよく紹介される偽物のジュエリーや時計に困惑しつつも、少し気に入ったものがあれば、即座にアラビア語で謎の会話が繰り広げられた。

しかし、会話をする二人の表情に笑みはなく、楽しい買い物のはずがどこか張りつめたような緊張感のある雰囲気に、少し恐怖さえ感じた。私はアラビア語がさっぱり分からないのだが、どうやら彼は店員と値段交渉をしているようだった。

“女性へのプレゼントなのに、商品が偽物な上に本人の前で値切るのはやめろよ。”と内心思いながらも、彼は既に謎の値切りやる気スイッチが作動している様子で、今まで見た事がないくらいに真剣な面持だった。

そして、値切りが思い通りにいかないと、喧嘩腰で店を次々と後にするという、何とも後味の悪い買い物の仕方に、私は思わず“サクッと正規店で本物を買ってはもらえませんか?”と内心思ったが、こういった偽物を扱う裏の商売であるという事に加え、特に中東では「値切り」が当たり前の文化として根付いているという事、そして裕福な彼が何故このエリアでの買い物にここまで拘るのかを、当時の私はまだ知らなかった。

アラブ人街の奥地の秘密

何軒もの店を回り喧嘩疲れして草臥れている中、少しだけ交渉がスムーズに進む店に巡り合った。

相変わらず私にはアラビア語は珍紛漢紛だが、それでも「ここならイケるかも?」という希望の光が見える空気感を肌で感じた。

すると、店員は何やらじゃらじゃらとした鍵を持ち出して店内の奥の方へと進み、私とドバイ人の彼を奥へと案内した。

その時、タイ人の女友達も一緒だったのだが、“Are you, Thai? No!! You have to stay here!”(君はタイ人?タイ人はここから先へは入れないよ。)と彼女だけ強く拒絶されてしまった。どうやらこの闇のアラブ人街のお店には、現地のタイ人が入る事のできないもっと深い闇の秘密の部屋があるらしいのだ。

結局、タイ人の友人を店の外で待たせる形で、私とドバイ人の彼は一緒に店の奥へと進み、何重にも鍵がかけられた分厚く重たい奥の扉を開けると、そこには幾つかの電球の灯火でどうにか店内が見渡せるくらいに暗く、非常に狭い部屋があった。

そして、そこには先ほどの明るい店内には無かった、非常に手の込んだ商品がぎっしりと敷き詰められていた。

いくらドバイ人の彼が一緒だと言えど、いつ私たちがここで身柄を拘束され監禁されてもおかしくないこの状況に、私は一人興奮しながらも冷や汗をかいていると、奥から中東系の二人の店員と思われる男性がやって来た。

一人は小人症で背が子供の様に低く、もう一人には片腕が無かった。

このあまりに衝撃的すぎる状況と展開に、私の頭の中は少しパニックだったが、彼らが予想に反してにこやかに微笑んで私に挨拶をしてくれたことで、先ほどまで抱えていた緊張が一気に和らいだ。

「お嬢さん、これはどう?」「こんなのもおすすめだよ。」と、間髪入れずに私の目の前に出される商品は、私の予想通りどれも巧妙に作られた偽物のブランド品だったが、誰もが入る事の出来る表の明るい店内に飾られた商品よりも、かなり作りの良い偽物の中の高級品だけが厳選されているようだった。

そして、あまり気が乗らない私を他所に、ドバイ人の彼と店員達は次々とあれこれ商品を物色し、私に黄金色に輝くブレスレットを試着させた。

案の定、私の腕にそのブレスレットはぴったりのサイズで、それを見たドバイ人の彼と店員達は無邪気に喜んだ。

しかし、それでも私は“偽物のジュエリー”というものに強い抵抗感があり、「確かにサイズも悪くはないけど、私には必要ないな。」と商品を店員に返そうとした瞬間、ドバイ人の彼は店員に返そうとしたブレスレットを再び私に強く握らせて「君が必要か必要じゃないかは関係ないんだ。使わなくても良いからとりあえず貰ってくれ。」と、なんともまぁ無茶苦茶な事を言うのである。

私にはその言動の意味がよく分からなかったが、とりあえず彼の言う通り、自分の腕にもう一度そのブレスレットを付けて、ドバイ人の彼は店員達に気持ちよくお金をお支払いして笑顔で店を後にした。

そして、特別欲しくもないブレスレットを半ば強引にプレゼントされて少し不機嫌になった私に、ドバイ人の彼はこう言った。

「ここで働いている中東の人々は、それぞれに理由があってこういった仕事をして生きているんだよ。」

彼らと同じ中東の人間として、少しでも彼らの生活を支えたくて僕はよくここで買い物をしているんだ。」

今回も君がブレスレットを貰ってくれたおかげで、彼らはまた少しの間生活が出来る。」

その言葉を聞いた瞬間、私は自分が持つ利己的な欲や考えと未熟さを感じたと同時に、今まで自分が如何に恵まれた国や環境下で育ち、豊かな暮らしをしてきたのかという事を思い知らされた。

勿論、日本にだって貧富の差は存在するものの、世界的に見るとかなりその差は小さく、非常に恵まれた環境である事には違いない。

手助けの手段が正当であるかそうでないかということはさておき、国境を超えた見ず知らずの人間だとしても、同じ民族を大切に思って手を差し伸べる彼の姿に、私は中東の人々の暖かく強い仲間意識と心の繋がりを感じながら、自分の視野の狭さを反省した。

社会では一般的にタブーとされている「悪」というものも、自分の見る角度や立ち位置を変えることでそれらが全く違うものに見えるという事は、人生の中で往々にしてあるものだ。

世に溢れる「正義」と「悪」という単純でわかりやすい二極対立構造は、実際にそれぞれの世界を覗いてみると全く単純ではなく、自分が想像するよりもよっぽど複雑で、私は、誰かにとっての「悪」が違う誰かにとっては「愛」や「優しさ」だったりする事を初めて知った。

本来、人が社会でより良く生きていく為に存在する正しい法律やルールも、時と場合によってそれが絶対的に正しい「正解」とは言い難く、世の中に存在する事で白と黒だけで綺麗に割り切れる事なんてほんの一部で、大概は何層にも重なったグレーで成り立ち、うまく回っているんだろうと感じた。

先ほどの明かりがない暗闇の部屋での買い物から一転、再び元の賑やかで明るいアラブ人街の街に戻った時、つい先程までの薄暗い幻想空間から一気に現実世界に戻ってきたような不思議な感じがした。

店の外で待っていてくれたタイ人の友人と合流し、再びこの眠らないアラブ人街を3人で楽しく歩き始めたが、最初にこの地に足を踏み入れた時と今では、私の感覚が大きく変わっていたことは言うまでもない。

そして、この大切なブレスレットは法律上日本に持ち込む事は出来ない為、最終的には現地の友人に預けて私は日本へ帰国した。

そのブレスレットはもう私の腕にはないが、あの時出会った人々との記憶はずっと新鮮なままで、これからもきっと忘れることはないだろう。