イタリア・ミラノの洗礼「パスタ・ビアンカ」

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イタリアの薬局と薬

熱や全身の怠さ、酷い関節痛が少し和らいだある日、外から戻ってきたイタリア人の家主はビニール袋を片手に帰ってきた。

スーパーで買い物をして帰ってきたのかと思いきや、彼はとりあえずどんな症状にも対応出来るようにと吐き気止めや解熱剤、痛み止めや胃薬など沢山の種類の薬を買ってきて、イタリア語が分からない私に一つずつ身振り手振りを使って薬の説明をしてくれた。

彼曰く、イタリアの薬局(Farmacia−ファルマチア)は、日本の薬局とは違い基本的に処方箋薬局で、病院に行ってドクターに診察をしてもらわない限り、その時の体調に本当に適した薬が買えないらしく、今手に入れる事の出来る薬をどうにか集めて用意したとの事だった。

こんな何処の馬の骨かも分からぬ異国人にこれ以上ないくらい優しくしてくれる彼に対し、私はなんだか感謝と申し訳なさという二つの感情が入り混じり、一刻も早く彼に元気な姿を見せたい気持ちで一杯になった私は、早速その夜から直ぐに薬を試してみることにした。

「海外の薬は日本のものよりも効き目が強い」という噂は強ち間違っていないようで、特に鎮痛剤(Tachipirina−タキピリーナ)で身体は驚くほど楽になり、柑橘系の非常に爽やかな味のビタミン粉末栄養剤(Polase−ポラーセ)のおかげで、私はそれ以降にあの不味い手作り経口補水液を飲まずに済んだ。

そして、日本の薬のパッケージデザインとは違い、イタリアの薬は、これが薬とは到底思えない程色鮮やかでポップなデザインが多く、なんだか「これを飲めばきっと良くなる!大丈夫だ!」と励まされているようで、それだけでも気が紛れて心が晴れたような気がした。

こういった日常の細部にも、イタリアらしいポジティブ思考がしっかりと根付いているのだ。

初めての食卓

薬の効果もあり、少しずつではあるが家の中を動けるようになったある日の夜、家主は「体調は良くなってきた?君がきちんと食事を取っている所を見るまでは心配で仕事にも行けないから、少しでもいいから今夜は一緒に食事をしよう。」と私に言った。

今まで、固形物は果物やヨーグルト以外は食欲が無く避けてきたが、彼があまりに私を心配してくれるので、少しくらい食べ物を口にしないとと思い、私はその提案を承諾した。

すると彼は、とびきりの笑顔で「今日は、君のために腕を振るってイタリアのシンプルなパスタをご馳走するよ。直ぐに出来るから待ってて!」と言ってキッチンに立った。

その後、彼に呼ばれてリビングへ行くと、既に真っ赤なテーブルクロスに虹色の紙ナプキン、カラフルなお皿にナイフやフォークなどのテーブルセッティングが完璧に準備されており、イタリア人が人と一緒に食事をする「食卓」というものを非常に大切にしている人達だということを知っていた私は、ここへ来てやっと初めて家主と一緒に食事がとれる事をとても嬉しく思った。

私が席につくと、私の後をつけるようにして猫のgattoがやってきて、まるで全員揃って一緒に食事する事をずっと楽しみにしているかのように勢いよくテーブルによじ登って腰を下ろし、一緒に彼お手製のパスタを待つ事にした。

Gattoは少々お行儀が悪かったが、ダイニングテーブルで2人と1匹で食事をするのも悪くないと思った。

優しさは時として仇となる

そして、いよいよお待ちかねのパスタがやってきて、彼は自慢げな表情で“Buonappetito!!(召し上がれ!!)”と言って私の目の前に皿を置いたその時、私は絶体絶命のピンチに陥るのである。

出されたパスタにはソースが一切かかっておらず、見た目はとてもシンプルで問題がなさそうに見えるが、兎にも角にも匂いが強烈なのである。

彼は、「茹でたパスタに塩胡椒をして、オリーブオイルとバターを絡ませたものにチーズをかけただけだから、これなら体調の悪いゆりかも食べられるだろう。」と言って、私がそのパスタを口に運ぶのをじっと見つめるのだが、これが所謂“食文化の違い”というやつなのか、私はそのパスタのあまりの匂いに思わず息を止めた。

どうやらこれは“パスタ・ビアンカ”という、イタリアでは非常にオーソドックでシンプルなレシピらしいのだが、日本の感覚だと、先ず具合が悪い時の食事は胃に負担をかけないよう油やバターを使う事はあまりない。

そして、一番の問題点は、何と言ってもこのパスタの上にてんこ盛りになった「パルミジャーノレッジャーノチーズ(英語だとパルメザンチーズ)」である。

パルミジャーノレッジャーノは、イタリア原産の北イタリアを代表するハードタイプのチーズで、しっかりとした旨味と豊かな香りが特徴の素晴らしいチーズなのだが、食欲もなく吐き気さえある今の私にとって、この芳醇で濃厚な香りは最早ただの拷問でしかないのだ。

しかも、この状況においてなんとも有難迷惑な事に、本場のパルミジャーノレッジャーノは日本で食べるものよりも何倍も香りが強く、ほんの香り付け程度ならまだしも、イタリア人のサービス精神をチーズの使用料で表現してくれたのか、最早パスタが見えないくらいに大量にかかってしまっているのである。

更に、異臭を放つチーズが出来立ての温かいパスタの上に乗っているが故に、チーズ自体も徐々に熱を持ち始め、益々その香りの強烈さが強くなるという度重なる悲劇に、私は窮地に追い込まれたのである。

正直、当時の体調を考えると先ず食べるべきでは無いのだが、彼が私を心配して一所懸命作ってくれたこの愛情たっぷりの異臭パスタを、ここへ来て彼の前で食べないという選択肢はもう何処にもなく、彼はひたすら私がそのパスタを口にするまでじっと見つめてくるのであった。

結局、私はこの至近距離の彼からのプレッシャーに耐えられず、とにかく彼の優しさに応えたいという一心で、息を止めながら遂にパスタを口にした。

しかし、先程までの身体の怠さや全身の筋肉痛は一瞬にして消え去った代わりに、私はこの凄まじく強烈なパルメザンフレーバーに瞬殺されそうになるのである。

とにかく、この厳しい状況を上手く乗り越える為、自分が生まれながらに持つ味覚と臭覚を一旦死滅させて一世一代の大勝負に挑んだのだが、その努力も虚しく、私の体調はこの事件をきっかけに再び見る見る悪化の一途を辿るのであった。

いくら息を止めて食べていても、噛めば噛むほどに豊かなチーズの香りがふわふわと鼻から抜けていき、どれだけ咀嚼しても全く飲み込めずに必死でパスタを頬張る私は、まるでハムスターのようだった。

最終的に、目に涙を浮かべながらもひたすら胃に流し込むようにしてパスタを食べるという苦行を積んだ私は、家主に「美味しいパスタをありがとう!ご馳走さま!」と、笑顔で精一杯の感謝を伝えて一目散に部屋へと走って戻り、一心不乱に胃薬を漁った。

でも私は、自分が多少無理をしてでも、それによって彼に対して小さな嘘をついてしまっても、それでもし彼が少しでも安心してくれるのなら何でも良かった。

後日、このエピソードをミラノ在住歴の長い日本人女性に話したところ、「イタリアらしいエピソードだわ!」と大爆笑された。

詳しく話を聞くと、どうやら今回の事件の主役である「パスタ・ビアンカ」というパスタは、イタリアでは体調が優れない時によく食べる定番の家庭料理らしく、日本でいうお粥のようなものだという。

確かに日本人にとっての米はイタリア人にとってのパスタだとは聞いたことがあるが、「具合が悪いのにオリーブオイルやバター、てんこ盛りのパルミジャーノレッジャーノチーズを身体が受け付けられる時点で、お前ら全然元気だろ!」というイタリア人に対しての疑問と本音は、敢えて口にせず黙っている事にした。

そして、改めて白いご飯と味噌汁を欲した自分に、自分が日本人であるという確固たるアイデンティティを再確認した。